先日、親戚の法事があり、その寺が浄土宗だと分かっていたので、佛教大学授戒会で授かった袈裟を首から下げ、浄土宗の数珠も持って行った。
中島家は浄土宗だが、ここ近年、他浄土宗の寺に出向いた記憶がない。そして、礼服のネクタイはいつも黒だ。白だったのは記憶にないくらい昔で、思い出せない。
スクーリングとかで京都へ行けば、あちらこちらに普通の寺が散見し、その度に「この寺はどこの宗派だ」などとつい確認してしまう私がいる。浄土宗と記されていれば、思わず合掌~。
久しぶりに浄土宗と記された表札を見ると、ホーム感を覚える。他の宗派の寺だと、どことなくアウェー感がするのは、敬けんではないが、浄土宗徒である自覚が少し生まれたのかもしれない。これもひとえに佛教大学に通っているおかげかもしれない。
そこの住職が私の袈裟を見て理由を聞き、京都で授戒会を受けたと言ったら、知恩院とか・・あとは清涼寺とかですか、と聞かれ、さすが浄土宗のプロだな、と思った。
まさに私はその清涼寺(嵯峨野辺り?)で、その話しから、浄土宗の宗歌「月かげ」が出て、これは浄土宗の女子高に通っていた娘の出番となった(歌わなかったけど)。私と娘の一番の共通項が浄土宗ネタだ。
経が始まれば、「南無阿弥陀仏」の同唱十念を聞き、久しぶりにプロの同唱十念を聞いたね、と娘と話しをしていた。「南無阿弥陀仏」を10回繰り返すのだが、8回目で抑揚が変わり、最終楽章風に9回目が始まる。・・だぶつの「つ」を言うのは9回目のみというのが最近の決まりらしい。
来年は、浄土宗の開祖法然の開宗850年記念があるそうで、その関係からか綺麗な葉書みたいなのを頂いた。建物とかを立体的に見せるためにくりぬいてある丁寧で綺麗なものである。家にある小さな阿弥陀如来?の木像(30年くらい前に台湾鹿港で購入)の横に立てかけた。
帰り際の壁に「十念を唱えましょう」という掛け軸風ポスターがあったので、娘と一緒に同唱十念。
特にという訳ではないが何かの懸念があったのだろう、訳の分からない同唱十念をしたら、どこかしら心が軽くなった。懸念自体は変わらないが、無意識の懸念がリセットされて軽くなり、これの最終系が「悟りの境地」かと思った。
しかし、自分の中だけでプラスに解釈すれば全て良しと思うが、「これこそが悟りへの道だ!」などと他者に説き始めたりすると、それはそれで新たな人生が始まるのだろうねぇ。私は興味ないけど。