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寿司屋の寿司

大晦日なので、恒例のカミさんからのミッションにて、注文していたお節料理と餅を取りにゆき、ついでに駅舎内の寿司屋でランチセットを食した。
運んでくるのはベルトコンベアじゃなくっておねーちゃんが持ってきてくれた。いつもとは違うぞ。
丸い皿には乗っていないし、パコパコなプラスチック容器に入っているのでもない、脚の付いた小さなまな板の上にそれは乗っていた。
絶対的に違うのは、ご飯に人肌の暖かさがあることだ。これを寿司ネタと一緒に食することに魅力的な美味さがあると感じる。

寿司屋の寿司を喰ったのは15年振りぐらいだけど、こういう何十年振りが意外と多く、どうも私は50才を境に、部分的にしろ庶民からもズレた厭世的な生活を送ってきた感がしないでもない。コロナ禍になったここ3年、特にそれが顕著になったような気がする。

寿司はもちろん美味いのだけど、寿司ネタを見ると、イクラとネギトロの軍艦巻きがあり、サーモンの握りもある。サーモンって鮭だよね、いつも焼いて喰っているヤツ。これだけは昭和のじじーなので、多少の違和感がある。
イメージとしては、こういうのではなく、タコやシメサバ、コハダとかがあり、巻物はカッパかカンピョウというのがあったハズなのだが、どうやらそういうのは最早オワコンの昭和スタイルだと思うのは、食した寿司ネタは、スーパー等で売っているやや高目の寿司パックのと似ているからだ。
10貫1,200円だけど、ランチでこのような高級感のあるネタで揃えてくるのは、進化した平成スタイルなのだろう。
タコやシメサバは別に握ってもらえば、と対面にいるかみさんが、食べ終わりそうな頃に申していた。

カツ丼

時として朝イチから無性に「○×が喰いてぇ」という衝動にかられるが、おそらく溜まったストレスを無意識に回避しようとする脳からのシグナルの一つかと思う。
で、今回はカツ丼。それもちゃんとした蕎麦屋のを、と軽量な脳が欲していた。

混むのが嫌なのでいつものように開店の11時過ぎに入れば、似たような孤独風な老人客も少し入ってきて、みんな「ビールと○×△」。
いいなぁ、昼にビールは美味いんだよなあぁ、連れションならぬ連れビールか、と思うも、昼に飲んだら「午後はないさ」になるので、グッと我慢して「お茶ちょうだい」になる。

私の知る限り、蕎麦屋のおやじって無口が多く、店を切り盛りするおばちゃんは愛嬌と愛想があるのが多いのが不思議だ。
そんなおばちゃんと「この新香、いいね、たくあんが光っている」などと言いながら、お望みのカツ丼を食べたとさ。

因に、関東の一部のエリアではファーストフード的な「かつ屋」というカツ丼ショップがあって、美味くて人気があり時々行くが、このかつ屋や富士そばなどのは玉子を1つ使い、蕎麦屋のは2つなので、微妙に食感が違う。

何分の粥だろうか

既述かもしれないが、粥が好きな割には、五分粥とか七分粥の違いが分からない。
調べたことが一度あるが、結局それで米自体がどうゆう柔らかさになるのかがピンと来なかったのでそのまま。
動物の擦り込みじゃないけど、20回強の訪台と4回の訪中での粥が全て写真のような感じだったのと、食感が合っていたので、私の中では「正しい粥」になっている。正しくない粥も気にならないけど、あらかじめ味付けしてある香港流粥はあまり合わないのは、「日本人は白米」という意識があるからだろうか。

3,000円ぐらいの骨壷スタイルの粥専用釜じゃ、こまかい調整はできず時間も米の量に不変なので、要は水温であることに気付いた。
今の首都圏の水温は数度~10度ぐらい。夏場は25度ぐらい。
これで同じ粥ができる筈はない、というのに数年前に気付いたが、私が思う正しくない粥がまずい訳ではないので、夏場はおやじじゃなかった、おじや風粥として楽しく食している。

医者からは、老齢からの血糖値が高いので、食事は炭水化物やカロリーに注意してね、量より質だよ、と言われたので、炭水化物の粥も0.5合にしている。飲酒時だけボーダーフリーになるが。

自宅籠りでのブランチ粥の他は部屋で読書となるが、暖房の効いた部屋にあつまる2匹の猫においては、やや猫ハビーにかまわれて迫害気味となる猫パコは写真のように腕枕を求めてくる。
喫煙タイム以外はこの状態だが、書籍の備忘録メモをするためにキーボードを打ち込む時があり、その都度上腕筋がビブラートするのだが、時として「動くんじゃねーよっ、ゆっくりできねーじゃねーかっ」と猫パコが腕をガブッ。甘噛みだけど成猫だから仔猫の猫ハビどころじゃない。
併せて仔猫だけどマジ噛みする猫ハビーのと合わせて、現在の拙上腕筋から手の甲にかけては、デューク東郷の背中のようになっている。