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人口3万人の小さな町だからバスに揺られて行くのである。
揺られ揺られて、揺られまくって脳味噌がヨーグルト状態になりつつも、バスで知り合ったスパニッシュギャルと相変わらずの下ネタ談義で盛り上がって住所を聞きだした頃やっとやっと着いた。
懐かしい町に着いてみると、なにも変わっていなくて、ちょっと数日間旅行して戻ってきた感覚だった。でもそれが単なる錯覚だと認識したのは、会うヤツ会うヤツみんなから「久しぶりだね、ケン。何年振り?」と言われるよりも、そう言っているみんながそれぞれ4年と云う歳月の中で成長または老いてしまっていた事だ。
ホアキンはより禿げてしまい、薄くなりかけた髪の毛は黒ではなかった。私より2/3の身長なのにお腹が2人分のダブルキングバーガーみたいになっていてスペインでは成長重力方向が上にへよりも横に行くみたいだ。4年振りの再会に、日本ではオカマのカップルと間違えられるように力強く抱き合った(スペイン式の挨拶ね)。うっすらと涙していたホアキンに不覚にも(ま、毎度だが)私は配偶者の前でもらい泣きしてしまった。少なくとも私は招かれざる客人ではなかった事に感涙した訳ではない。
末っ子ハビーも今では17才になり、チビだったのが私ぐらいの身長になり、一人前に耳ピアスなんぞをして、なんと勉強嫌いだったくせにメガネもかけていて、これまた「働く事は愚かな事だ」なんて言っていたのが、今では大学を目指している。偉い!
翌日もう一人の親友、今は亡きパコの家に行った。
日本で普通に考えれば駅の周りが一番賑やかなのだが、スペインの場合、たいていは駅の遠い所に繁華街または町の中心がある。そんな静かな駅の裏にパコの大きな家がある。元旦早々みんなが寝まくっている午前中、見慣れたあの陽気過ぎたパコの家の門を開けた。懐かしい子犬が私に吠えまくる。その声で喪に服しての黒い服を着たパコのムヘール(スペイン語のWife)が出てきた。
私達の訪れを確認した瞬間にムヘールは手を広げながら涙しながらこっちに駆け寄って来た。そう、映画のようにね。これで涙しない人間がいたら「死ぬまで泣いてはいけない。」と云う戒律厳しい新興宗教信者だけだ(そんなのはないと思うが)。
おいおい、ホアキンの所で涙してここでも涙しなければならないのか?それも(ま、毎度だが)配偶者の前で・・・、なんて思う前に私は目の前が涙で見えなくなっていた。どーしてこうなるの?!
家に入ったら模様が変わっていた。パコとの思い出のある家具調度品に接するのが辛いので全部別荘に移したそうだ。金持ちじゃね〜
ムヘールの為に、そしてパコの孫が死ぬまで変色しないようにと、気合いを入れてプリントした生前のパコの写真を小さな額付きで持っていった。うーん、逆効果だったのだろうか?ま、いいか、パコ曰く、私はアンポンタン(Granuja)な外国人だから・・・。
話を聞けば、良くある話で雨の日の道路で対向車がスリップして突っ込んで来たらしい。なんとムヘールも一緒で、事故後も肋骨沢山折りながらの意識不明で10日間病院の集中治療室にいたとの事には驚いた。
ホアキンもカルメンもムヘールも、いつまでいるの?と必ず聞いてきた。「う〜ん、今回はここには2日間しかいられないのよ〜。」と答える私に「んじゃ、日本に戻ってから今度はいつくるの?」と聞き返した時に、本当に短い今回のスケジュールに苛立ち、そしてまたちょこっと目頭が熱くなった。
ぽつんとムヘールが「明日ここを出発するのならその前に朝飯を一緒に食べないか?」と云う問いに、はっきりとそれが聞き取れてスペイン語でちゃんと断る返答のできる私自身を恨んだ。
今回は本当に時間がないんだ、ムヘール。
パコの家から町の中心地までの道は一直線。歩いて30分ぐらい。カミさんとテクテク帰った。
一直線に伸びる道の先の向こうにスペインの町を象徴するかのようなデッカい大聖堂が何よりも大きく鎮座しているのが良く見えた。その後には町を取り囲むようにカルデラ状の外郭、そしてそれら全体を見下ろすように真っ白に染まった浅間山のようなネバタ山脈が迫るようにして背景を埋めていた。
若い頃オフクロを亡くしたカミさんは、ムヘールの心情とオーバーラップして何かを語っているのだが、真っ白なネバタ山脈の中にはっきりとコントラストを付けながらそびえ立つ大聖堂だけを見つめて歩いている私にはうわの空だった・・・。
遠くの鳥のさえずりさえも聞こえるくらいの静かなスペインのとある小さな町の1月1日の午後。
■ 登場人物写真参照:拙写真集「MY COMPANY」 | ||
ホアキン | Joaquín 1986 | P63 |
ハビー | Javier 1991 | P73, 93, 113 |
パコ | Paco 1990 | P112 |
ムヘール | Mujer 1990 | P99 |