【嘉南大圳の父 八田與一】 農業水利!飲料水!の資源!あゝ!
八田與一技師と嘉南大圳(かなんたいしゅう)
八田與一技師は、真底から台湾を愛し、台湾の農業水利事業の歴史の中で、実に偉大な貢献をされておられるのです。
八田氏は、その人生の中でも、最も貴重な青春時代を、嘉南大圳の建設とその完成のために全精力を尽くされたのであります。今日になっても、なお多くの台湾の農民の方々から、深く敬愛されているのであります。そういう一人の日本人技師者であります。
その八田氏は、明治19年2月22日に石川県河北郡花園村(現在の石川県金沢市今町)で生まれ、明治43年に25才で東京帝国大学工学部土木科を卒業すると同時に台湾に渡り、当時の台湾総督府内務局土木課の土木技手として勤務されたのであります。
そして、その着任早々から台湾全島各地の状況視察を命じられております。
当初は、衛生工事を分担していて、嘉義、台南、高雄等の各都市の上水道工事に専任されておられましたが、その後、衛生工事から発電、灌漑工事の方面へ担当替えを命じられました。
八田氏は、水利技術に大変造詣が深く、水利事業については、自分なりに非常に大規模で広大な将来構想を持っておられたので、この職に就いたばかりの28才の若年の技手でありながら、灌漑面積3万3千ヘクタールの桃園大圳水利工事設計の全責任を負い、その工事完成後は一躍台湾水利建設事業の第一人者となり、時の政府もその功績を認めて技師に昇任させたのであります。
また、大正5年4月には、フィリピン、香港、汕頭、厦門、南洋等の各地の水利事業の視察に赴き、帰国後も引き続き台湾の水利事業のために精力を傾注されたのであります。
そして、八田氏は、新設する水利工事の計画調査のためなら、どのような苦労を厭わず、度々田舎や山地に赴かれて、遂に烏山頭ダムの建設地点を発見されたのです。
もしここに大貯水池を建設して、そして同時に濁水渓の河水を導き入れて、当時の嘉義、台南両庁にまたがる南北110km、東西71kmの嘉南平野に、大規模な灌漑工事と排水工事を行うならば、面積15万ヘクタールにわたる常襲干ばつの田圃の灌漑が一挙に解決出来ると共に、同時に塩害の発生地域の土地改良もすることが出来ることから、一躍90万トンの食料の増産が可能となるだろうと判断して、その調査報告書を作成して上申すると、八田氏の直近の上司でもある山形土木課長もその計画を容認されたのであります。
また、その上の上司にあたり、非常に高い識見と造詣の深い持ち主でもある、台湾総督府民政長官下村海南博士にも認められるところなって、八田氏のこの稀な優れた才能(奇才)を重要視して、この空前の大工事である嘉南大圳の大灌漑計画の大任を、まだ、30才を越えたばかりの一技師の手に委ねられたのでありました。
そこで八田氏は、大正8年3月に実に80数名の技術者を引き連れて、15万ヘクタールもある未開発の嘉南平野の荒野や山々を駆け回り、酷暑と病魔と闘いながら、また不眠不休の万難を排して率先奮闘して調査測量を行われたのでありました。
そして、その年の10月には全ての測量計画を完了して、実施計画書を政府と国会に提出したのであります。
それから、この実施計画はかなり開発価値の高い大工事であることが認められて開発の許可が出されて、大正9年9月1日に国庫補助率50%で建設工事が開始されたのであります。
これは、当時の日本においては最大のダム工事でありました愛知用水工事の二倍以上の大工事で、調査設計から着工にこぎつけるまでに、実に4年もかかったのであります。
八田氏は烏山頭工事の出張所の所長を拝命すると同時に、監督と工務の両課長を兼務して、現場一切の業務の指導指揮にあたられたのであります。
この八田プランの実質のプラン・メーカーは官僚ではありましたが、施工者や運営者は民間団体の形式が取られておりました。そのために嘉南大圳組合という水利組合が組織されました。
この時に八田氏は、この建設工事に専念するためとして台湾総督府の職員を辞任されたのであります。このことからも八田氏のこの建設工事にかける真摯な意気込みを感じ取ることが出来るのであります。
ダムの建設地点は、官田渓の上流の烏山頭に堰堤を築いて河水を堰止め、自然の渓谷をそのまま利用して珊瑚状の形をした一大人造湖を築造して、貯水池の水源は、六甲、宮田、大内、来山等4郷11段にまたがる取水面積6,000ヘクタールの雨量と烏山嶺という山の向こう側を流れる曽文渓の水をこの人工湖に導き入れるために、その曽文渓右岸に最大取水量毎秒56万立方メートルの取水口を設けて、烏山嶺に延長3〜2km、高さと幅共に5〜6mのトンネルを貫通させたのであります。
また、この水を堰止めるために、官田渓に次のような大規模の大堰堤を築造したのであります。
堰堤の高さは、56m(標高66.66m)、堰堤頂部の延長は、1,273m、堰堤の幅は、303m。
堰堤両側の法面は、上流1:3、下流1:2.5〜1:3。
堰堤の切土数量は、774,000立方メートル、堰堤の盛土数量は、5399,838立方メートル。
中心コンクリートの数量は、27,600立方メートル
この工事がいかに大規模であるかは、当時の日本はもとより、東洋においても最大規模のものであり、また当時の先進国であるアメリカですら2〜3ヶ所しか無かったのであります。
この堰堤を築造するのに、八田氏はセミ・ハイドロリック工法という、現在でも東洋にただ一つしか無い独特の工法を採用しております。
今日の私達の常識では、ダムといえば直ぐにセメント株が高騰するような莫大なセメントを使って築かれたコンクリートの巨大な堤防を連想しますが、この半水締めというセミ・ハイドロリック堰堤の工法は、このコンクリートを中芯部の一部分に使うだけで、あとの大部分は玉石、要石、砂利、子砂、粘土の混合した土壌を使っているだけで、一口に言えば、自然が湖水を造るときにコンクリートを使わないのと同様であります。
その工事は、まず地表の第四紀層の土を第三紀層に達するまで切り取って、その底部の中芯部に平均高さ3.64m、頂部の幅、0.9m、底部の幅、1.52mの中芯コンクリートのコアを造り、外側の底には浸透水を除いて堰堤の湿潤を防ぐために、609mの排水幹線と425mの暗渠支線を設けております。
また、堰堤内部には沈殿した粘土の圧力を測定したり、標本を採取するために中芯のコンクリートの上の所々に内径1.5m、高さ48.48m〜54.54m(標高66.66m)の鉄筋コンクリートのマンホールを六箇所設けております。
そして堰堤を築造する土壌は、ダム・サイトより20km離れた曽文渓の畔まで軌道を敷設して、玉石、要石、砂利、子砂、粘土の混合した土壌を運んで来て堰堤を築造する地点の両側に盛土して、真ん中には河水を導きいれるための溝としました。
その溝の河水を450馬力のジャイアント・ポンプを使って、両側の盛土に向かって射水をするのであります。
そうすると、大きい玉石はそのまま残って、要石、砂利、子砂、粘土の順に中央部へと流されて、その真ん中の部分には濁り水が流れて、その中に含まれている極微粒子の粘土が沈殿して、その中芯部は粘土のハガネ層を造り上げるという仕組みなのであります。
普通の堰堤の工法はいずれも乾式土堰堤でありまして、湿式土堰堤は嘉南大圳だけが唯一の例で、嘉南大圳の烏山頭貯水池が『八田ダム』と呼ばれているのは、その独特の工法によるものであるからであります。
また、その外にも、八田構想によって生み出されたものとして、特筆すべきものとしては、この地にいわゆる『三年輪作灌漑』という耕作方法の普及があります。
この大灌漑工事は6年間の継続事業として、当初事業費は4,200万円と定められましたが、工事は想像以上の難工事でありました。
人夫の日給が1円の時代で、4,200万円といえば相当なお金でありますが、色々と不可抗力の事故が発生して、そんなに難しい工事なら止めてしまったらどうだという議論もあったということです。また、事業の施工中には多くの疑問も生じてきました。
大正11年には、日本から土木界の権威者である佐野藤次郎博士を実施調査と指導のために招かれ、また、八田氏は蔵成、白木両技師と共に、アメリカ、カナダ、メキシコ及び日本へ堰堤築造の視察と機械の導入のために出掛け、さらに大正13年には、アメリカの権威者ジェルデー・ジャスチン氏を招聘して調査を行い、八田氏の工法が、この土地の条件に一番合致しているという太鼓判を押してもらっております。
機械化作業の発達していない当時の工事の施行は、毎日千人を超える労働者が立ち働いており、その姿は実に壮観であったことでありましょう。
また、娯楽施設が無いために、労働者達は盛んに博打を打つ、そうすると警察官がかたっぱしから引っ張って行くので、仕事が中々進捗しないため、止むを得ず八田氏は警察に出向いて博打を大目に見てもらうよう頼んだというエピソードもあったといいます。
しかし、この工事は経済界の不況や関東大震災による国庫補助金の削減等にたたられ、また、烏山頭の大堰堤の築造だけで工事費の大部分を使ってしまったので、大正15年度完成予定を大正18年(昭和4年)度に延期して、総工事費も6,163,000円を追加して、48,163,000円に増額されました。
ところが、これだけの莫大な経費を使ってもまだ足りず、昭和3年度には5,321,000、その翌年度には風水害復旧費として655,000円を追加し、結局着工してから十箇年間、総工事費54,139,000円、そのうち国庫補助金26,74万円を受け、その他は賦課金と台湾総督府、日本勧業銀行の借入金で賄われたのであります。
このように十箇年間の永い歳月と5,400余万円の巨額の工事費を費やして、遂に昭和5年3月に烏山頭において、満水面積千ヘクタール、有効貯水量一億五千立方メートルの大貯水池が見事に完成されました。
このため周辺の山々は腰や、胸のあたりまで水中に没して、水は各渓谷に満ち満ちたのであります。この形があたかも珊瑚樹のように見えることを予想して、いち早くこの湖を珊瑚潭と名付けたのは、前記しました下村海南博士でありました。
嘉南大圳水利組合は、八田技師の功績を永久に記念するため、八田氏の銅像を八田氏が十箇年の歳月をかけて築き上げた烏山頭ダムの堰堤の北端の丘に建立されております。
八田氏が工事中現場で、よくそんな格好をして座っていたままの姿で、今日もなお座り続けているのであります。
八田氏の見下ろす視線には、官田渓の水を堰止めて造られたダムの洋々たる湖が、数十年経過後の今日もなお光り輝いているのであります。
嘉南大圳を完成させた八田氏は、その後、一旦脱いだ感服を再び着る身になって、そして以前に勤務した台湾総督府内務局土木課に復帰したのであります。
当時の官制では、技術者は課長になることが出来なかったので、いわゆる『勅任技師』に任命されて厚遇されたのであります。
そして、今度は台湾全島の産業開発計画案を策定されたのであります。
その間も対岸の福建省で主席をされていた陳儀氏に招かれて、その開発についての意見を述べられたこともありました。
また、かつて八田氏のもとで仕事をして来た技術者達は、後に観音埤、犬山埤、竹仔門埤、鹿寮貯水池、蘭潭等の小型貯水池を築造されておりあす。
また、八田氏は大規模で広大な蓬莱構想の持ち主で、早くから曽文貯水池(曽文ダム)の調査と企画をされておられました。現在の曽文ダムの堰堤築造地点は、八田氏が生前に選定された地点なのであります。
やがて戦争が始まって、八田氏は海南島へ飛んだり、また最後には命令によって南洋のフィリピンへ水利開発の実施調査にでかけることになっていて、優秀な技術者達と一緒に大洋丸に乗られたのでしたが、昭和17年5月8日に五島列島を出たあたりで、アメリカの潜水艦に撃沈され、不帰の客となられたのであります。時に57才の生涯でありました。
その遺骸は、丁度その付近で網を使って捕獲漁業の作業をしていた山口県の漁船第二睦丸安藤晃船長の網にかかり、八田氏の故郷に送られ火葬にされました。
八田氏の夫人、外代樹(とよき)さんは、八田氏と同じ故郷のお医者さんのお嬢さんで、当時土木課勤務中の八田氏のもとに嫁がれ、現場の指揮者として烏山頭の山中に赴任している夫についてあの不毛の荒野に入って、そこで十年間も暮らされたのであります。
その嘉南圳工事が完成してからは、夫人は夫と共に台北の官舎に戻られましたが、大洋丸の沈没の報告は、この留守宅に伝えられたのであります。
戦争が次第に激しくなるにつれて、台北の人々も田舎へ疎開するようになりましたが、外代樹さんは子供と連れ立って、思い出の多い烏山頭を疎開地として選ばれたのであります。
やがて台湾にいる日本人は、台湾から去らなければならない『無条件降伏』の日が来ました。
多分、外代樹さんは、烏山頭を自分の永住の地だと思っておられたに違いありません。また、台湾を去りたく無かったのでしょう。
子供が学徒動員から復員して、烏山頭の疎開先に戻って来られました。
夫人は三年間の悲しみに耐えられなかったのでしょうか?
その深夜の9月1日に外代樹さんは、家を抜け出して、夫が粒々辛苦して築き上げたあの烏山頭ダムの送水口の渦巻く水の中へ身を投げて、享年僅か45才で夫の後を追ったのであります。
台湾の人たちは、その偉業を感謝する意味で建立した銅像と、昭和21年12月15日には、八田さん夫妻の墓を、それも日本式のものをその銅像の後ろに建立されております。
このように、国境を越えて、また、民族の感情を越えて、このダムによって恩恵を被っている多くの人々は、その現実を乗り越えて、未だに在りし日の八田氏の功績に感謝の意を表すために、毎年5月8日の八田氏の命日には、今日もなお追悼式の祭典を挙行し続けて来ているのであります。
嘉南大圳創立60周年
陳 彩宮
1980年12月 烏山頭にて
【参考事項】
- 『圳埤』について
『埤(ひ)』とは、農業耕作用の小規模ダムのこと。
『圳(しゅう/しん)』とは、灌漑用の水路のこと。
- 『嘉南大圳』について
工事の規模、スケールがあまりにも大きいため、『圳埤』では、言葉の方が負けてしまい言い表されないので、『大圳』としたもので、『圳』は、日本の漢字にはない。
- この嘉南地方は、歴史的にもダムの条件、ダムの必要な所だったのでしょうか?
- 17世紀にオランダ人が、ここにレンガで造った堰があり、『三脚埤』と名付けられた遺跡が残っております。
- 清朝時代、康煕皇帝の末期に、当時の県知事であった周鐘瑄が俸給百万石を献上して、住民に「烏山頭陂」と呼ぶダムを造るように協力したと言う記録画あります。
- 嘉南大圳の全部の大小水路の総延長は24,000kmで、台湾を約20周する長さがあります。
- 八田氏は、頭の前の部分の髪を右手の人さし指でぐるぐるひねり回すくせがあり、大きくゆっくり回している時は機嫌の良い時で、仕事の相談等は、この時を見計らって行き、小さく、早くひねり回している時は、機嫌の悪い時で、声をかけたりすると、大声で怒鳴られていたということです。
- 八田氏は、日頃は無口で、とても威厳があって、仕事に対しての要求は、厳格な人でありましたが、普段は、部下思いの上司でして、工事中の進捗の関係から夜業をすると、必ず作業現場を見回って、皆を激励するような温和な方だったといいます。
- 八田氏は、このダムの完成後台北の総督府に帰られましたが、生前中は、毎年一度は建設当時の技術者幹部と共に、この地へ戻って来て工事の重要地点を視察された後、色々と維持管理上の注意事項を指導されていたといいます。
- 八田氏は、このダムで連れた河魚を油で揚げた料理が大好きで、八田氏が来られる数日前から、職員で事務に支障のないものが釣りに行き、釣れた魚はその場で油で揚げておいて、来られるのを待っていたといい伝えられています。
- 昭和20年8月31日の夜、八田氏の次男泰雄さんが、学徒動員から帰って来られました。その9月1日の未明に八田夫人は、八田家の家紋入りの和服に、裾が乱れないようにと、モンペを身につけて、遺書を残して放水口の渦巻く水の中へ・・・。
丁度、25年前の嘉南大圳工事の起工日と同じ日でした。
- 八田氏の銅像は、ダムの完成後の昭和6年7月に安置されましたが、第二次世界大戦の末期に、金属類はことごとく回収され、八田氏の銅像も免れませんでしたが、終戦早々に職員が偶然に隆田の倉庫で発見して、これを買い戻しました。
そして、昭和56年1月1日に再び元の位置に安置したのでした。
その安置する前に盗まれたり、傷つけられたり等の万一のことを考慮して、鋳型をあらためて造ってあるそうです。
- 八田氏の長男晃夫さんは、かつて愛知県土木部長を担任されていて、終戦当時ここの所長をされていた赤堀信一氏の次女綾子さんと結婚されておられます。
- 毎年5月8日の八田氏の命日の追悼式と同様に、同じ工事十箇年間に、事故や風土病等で倒れた134名の従業員や家族の霊を慰めるために、昭和5年3月に建立された「殉工碑」の前で、現在も毎年旧暦7月15日に慰霊祭を行うことが今も続けられているのです。
- このダムの施工は、東洋一だったので、大正12年に昭和天皇が、未だ皇太子の時代にこの工事現場に御成りになられたのであります。
【後書き】
この文章は、平成8年(1996年)7月に訪台して、18日の日に、台中市の東海大学環境科学部の教授であり、同大環境科学研究所所長でもある丘依枢先生と台南市民政局長林森栄氏のご配慮により、丘依枢先生と一緒に烏山頭給水庁の浄水場・烏山頭大貯水池と諸施設・嘉南農田水利会(嘉南嘉南大圳組合の名称)を直接視察することが出来ました。
そのおりに、1980年12月に烏山頭で行われました嘉南大圳創立60周年記念に際しての陳彩宮氏の冊子のコピーを頂戴して帰りまして、私たち日本人にも、より理解を頂きたいと読みやすいようにと書き改めたものです。
建設当時の世界的に大きなダムは、すべて土砂の堆積によりその用をなさ無くなっている中で、この大貯水池のみが、土砂の堆積を防ぐための砂防対策が取られていたことから、今も悠々と満面に光り輝いているのです。
その八田與一氏の死後50数年も経過した今日になっても、依然として、その功績をしっかりと受け止めて頂いていて、その命日には毎年追悼式を行っておられる台湾の農家の皆さんを始めとする多くの方々の、その真心に感激して、日本の多くの方々の心に、偉大なる八田與一技師の台湾にこもる愛情と同じような愛が台湾に対して宿ることを祈念して、これをプリント致しました。
山口市自動車運送事業管理者・山口市交通局長
山本 武彦
農の道・農の心を解して。1996年7月吉日