Monthly Archives: 10月 2016

さらばか、台湾ジッポー

台湾ジッポー

台湾ジッポー

 過日、自民党の山東昭子議員がタバコを1,000円へと言ったら、官房長官が「いいタイミングだ」などとのたま、いや、おっしゃった。何を言っているんだ自民党、もう投票しないぞ、共産党とかにするぞ。
 近々来年あたりか500円になるのは必至で、その先、1,000円にはならないとしても750円ぐらいにはなるだろう。やめる人がいてもその値上げ分でタバコ税減収を補えるか。補えないと当然何かが値上がりすると。
 さすがに500円以上はバカバカしいので、値上がりする前に3度目の禁煙を敢行すると。
 禁煙外来に行ったら、以前と同様のチャンピックスを渡された。保険が効きますからと合計19,000円ぐらいです、と女医さん。ネットでも19,000円ぐらいで売っているのだけどなぁ。どういう金額設定なのだろうか、この薬。
 そして、口もとが寂しい時にはガムとかアメをなめると良いですよ。部分入れ歯だからガムはダメだけど、「キャンロップとかのアメをなめたら糖分摂取しすぎないですか?」の問いに「糖分ゼロのもいろいろありますよ」。糖分ゼロのアメなんて美味いのかな、普通誰がナメるのだ、禁煙治療者専用とか。
 
 前回のチャンピックスは無事禁煙できた4ヶ月目に、ふと娘の部屋にある体重計に乗ったら、64kgが約70kgになっていてびっくり。横にある大きな鏡で自分を見たら、何処かしら顔がムクんでいる。思わずシャツも脱いでナイスアホバディを見たら、下っ腹はもともと出ていないのだけど、全体的に太った、ではなくてやはり全体的に大いにムクんでいて「誰の肉体だ?!」だ。自転車屋の空気入れを思い出した。

 食事も酒の量も変わっていないのだけど、とにもかくも喫煙はダイエット効果があるようだ。個人差かな。薬の仕様では、薬を飲み続けてその1週間後から完全禁煙モードに入るのだけど、前回同様、飲み始めの明日そこそこに吸って明後日から禁煙モードにしようかと思っているところ。チャンピックスはすごい。飲むと本当にタバコが欲しくなくなり、辛いのは最初の3日ぐらい。
 問題は禁煙よりもムクまないようにすることだ。ピザーラの注文回数を減らし、フライドチキンや肉などをやめ、魚と味の良く分からない総菜を酒の肴にするか・・、なんか世捨て人みたいな生活になりそうだ。
 それで言えば、身長−体重=100は微妙な肥満で良いのだけど、太るのは喫煙より良くないのは私の場合で、心臓への負担増大、そして「やや高目気味」な血圧と糖尿値が確実に「高いぞ」になること必至で、これで太ってしまったら、もう怖くて健康診断はできなくなってしまうだろう。
 吸うか止めるかは意外と簡単で、一番難しいのが節煙だ。3度目の禁煙がダメだったら、4回目まで、節煙にチャレンジかな、とやる前から早くも意気消チンモードだ。

 せっかく買ったお気に入りの台湾ジッポーを明日で使わなくなるのはちと寂しいところがある~。

私学会館

 結婚式を挙げた私学会館(現、市ケ谷アルカディア)へ、挙式以来24年振りに行った。
 内堀りと靖国通りに挟まれ、その先は法政大学がある狭いところに立ち並ぶビル群に混じっているので、椿山荘や雅叙園、プリンスホテル等に比べたら思いっきり見劣りバツグンな会館だが、自分にとってどことなく身分相応風のフィット感があり、そのこじんまり感も可愛くて、ちょっと心の中でお気に入りだ。その割には利用していないけど。
 思い出せば、2年前に私学会館のをアップしていた。
 http://www.accitano.com/blog/?p=3510

 今回は、佛教大学の仲間が亡くなってしまい、そのお別れの会への出席だ。乳がんから発していろいろあって、最後は心不全にて享年67歳。
 24年前カミさんはウエディングドレスを着て、私は紳士服のサムで買ったかのような黒スーツで挙式した記憶のあるフロアーがその会場だった。懐かしい。
 葬式は身内で済ませ、改めて後日「お別れ会」というもので私は始めてだ。
 告別式みたいな椅子配置だけど、坊さんとかはおらず知人友人達がいろいろ思い出を語り、その後、椅子を片づけての立食会食。
 本体はないけどそんな感じの祭壇があり、各自献花をして着席するのだがその写真を見て、あれっと思った。毎月大正大学で行われる学習会にて私がスナップした2年前の夏の写真だった。自分が撮った写真が遺影になっているのを見るのは、嬉しいのだけど、よりその人への思い強く心に定着し、不本意不必要不覚にも目頭が熱くなるところがある。泣く男はみっともないと思うのは昭和の感覚なのだろう。

 1時間ぐらい彼女の友人知人の話を聞いているのはなかなか良いもんだ。
 告別式(通夜)とかだとそうはいかないだろう。翌日の焼く準備や、香典の金額チェック等忙しく、ゆっくり家族などと話をする時間がない。あるとすれば、かなりの田舎地方か昭和の時代でのことと思う。ただ、この「良いもんだ」には条件があると思う。過日、傘寿を超えた叔父と台湾の飲んでいた時、「ケン坊、長生きするのは良いけど、その葬式は寂しいぞ。みーんな先に死んでいるのが多いからねぇ、88歳の伯父がそうだったでしょ。オレん時も少ないだろうな、ま、ケン坊来てくれよな~」、「じゃ、その時の為に呼んで欲しい人のリストを死ぬ前に教えておいてよ」。
 もっとも、箱に入っている当人にはどうでも良いことなんだけど、そういう意味では、早くゆく負をかなりフォローしているような気がしないでもない。

 最後に彼女と会ったのは、今年の初春で、いつもの大正大学の学習会にて話をしたり一緒に電車に乗って帰っていたこともあって、その月に、文教大学後輩のシマダから連絡があって緩和ケアにいます、と。
 こんだけ身近な歳も近い人がいってしまうと、なーんだ、ちょっと先に行っただけじゃん。追々後からすぐゆくよ、みたいな感覚になってくるのが不思議で、それは老いへの覚えその一なのかもしれない。還暦過ぎたら生きていられても20年から30年だ。10歳から30歳までの20年間は、それは人生で一番激動で輝かしい期間だけど、還暦後の20年ってそれに類するような大きなイベントがあると思えない、あっと言う間だ。そんな時、ちょっと先に行った友達に、自分の末への覚えをやはり一つ教えてもらったような気がする。

 翌日、学習会があるので大正大学へ行った。
 いつもの部屋には、2年前に彼女を撮った時と同じようにいつものように机等が配置されていた。

古本のオマケ

 かの「あぶない大学・消える大学」2001年度版がアマゾンから届いた。
 定番の「日本の大学格付け」だけど、だんだんとランキングが細分化し、2001年は8ランクだったのが、最新の2017年のは10ランクに増えていて良く分かりません。
 細かくチェックはしていないが、2001年にてあぶないと言われた大学は、あれ、ないぞ!と思ったものも上位ランクに入っていたりして2017年まで殆ど健在で、何処かしらホッとした。

 著者の主張は変わらないのだが、その時代における教育関連の出来事に接していて、2001年辺りは「ゆとり教育」の時代だったようだ。例の円周率が3というやつ。そういえばそういうのがあったなぁ。当然、著者はそれに対してラジカル気味に反論しているが、これがまた読んでいてなるほど、と小気味よい。
 また、広末涼子の早稲田大学受験があったのがこの年のようで、その彼女の自己推薦制度の受験顛末を概説してくれていて、へぇ、なるほど~。彼女がマネージャーとかに付き添われて投稿している写真を何処かの雑誌で見たことを思い出した。

 古本なので幾つか書き込みがあった。
 主に国立大学に線が引いてあり、お茶の水女子大学にもあり、総て鉛筆使用だったので女の子の受験生なのかもしれない。今33才ぐらいかな?また、特待生制度において入学金、授業料免除の帝京大学には特別風に二重線が引いてあったので、あまり裕福ではない家庭の優秀な女の子かな、と思ったりもした。
 このような書き込みは、前に読んでいた人の足跡のようなもので、共通の興味でもって読むところからの共有感も生まれ、どこかしら親近感も覚えてくる。省く、コーヒーのシミとかせんべいのカスetc。

 もっとも少し前に購入した古本「仏教史入門」にはラインマーカーこそはないけど、あちらこちら、引きまくった線で埋まっていて、何が重要で何がポイントなのかが分からず、消すのに時間がかかった。ただ中にしおり代わりに使っていたのだろう店のレシートが入っていて、それは島根県のスーパーのだった。ちょっと山陰地方に思いを馳せた。この辺、古本のオマケと言おうか面白さの一つかもしれない。

消えないでね。×2冊

「危ない大学・消える大学」

「危ない大学・消える大学」

猫パコ

猫パコ

 カミさんに例の「危ない大学・消える大学」の話をしたら、読みたい。たくさんあるのなら最新のと古いのを2冊買って、推移を見てみたいとのこと。なるほど、この場合、愚妻と称せねばならぬが、なかなか観点が鋭い。
 新品なのでヨドバシコムでポチッしたのが土曜日なのに日曜日の昼前に着いた。2001年度版のはアマゾンの古本なので今週後半着予定。

 お互いにこの本をペラペラめくりながら、「○×大学はこのランキング?」、「なんで△■大学はここなの?」などと言いながらの中年夫婦が遅い昼飯を食べている風景はやや異様かもしれない。
 食後、歯を磨きながらペラペラ、一服しながらペラペラみていたら、面白くなってそのままソファーに横になって一気にペラペラ、二時間で読み切ってしまった。前述の『空の論理(中観)』とえらい違いだ。こちらは紙の中に鉛でも仕込んであるのだろう、ページが重たい(涙)。

 筆者の主観が入ってはいるけどデーターを踏まえて述べているので、筆致は平坦とは言え、その分言葉がストレートである。ランク7番目が筆者主観での「できればこのクラスまでに入ってもらいたい」というのがある。8項目以降はストレートな言葉は避けているが、つまりは8~10項目はNGだというのが分かる。そしてランク10へは「危ない大学・消える大学の候補校」とはあるが、別章では「低レベル大学」としてそれがあちらこちらに散見する。はしがきにも記してあるが身も蓋もないもんだ。
 在校生や受験希望者などはおそらく冷静にこのランクを受け止めると思われるが、OBまたはその学校関係からは激怒かもしれないなぁ、と思っていたら、事務所への電話やSNS等への苦情、文句、中傷誹謗の嵐だらけだったのが文面からかいま見ることができた。当然でしょうなぁ。

 この本では、一般的かつ多数的な文系卒で一般企業に就職しようとする学生を主に対象としていて、学歴偏重においては、その是非云々よりも、確実に存在し当分それが続く、とある。そしてその世界に就職として入るのなら、一つでも上のランクへと推していて、その低レベルに入るのなら二浪ぐらいまででしても上ランクのへ、と言い切っている。つまり、ランク9や10を志望する受験生には一念発起して「できればこのクラス・・」以上をと、言い切っている。敢えて二浪というのは、ランク10の学力だと高校の復習も含まれ、一浪では難しいかもしれないので二浪までとしているように見受けられるて、結構現実的に親切なアドバイスしているじゃん、と思った。

 この本は一体誰が主に読むのだろう。受験生が読むのなら良いと思うけど、その父兄が読むのは諸刃の剣かも。それでもこの本は20年ぐらい前から続いている。今や私同様中年になってしまった著者だけど、この調子での昔だと、もっとラジカルだったのかもしれない、という期待を持って15年前の本が届くのを楽しみにしている。
 この本は面白い。もちろんアマゾンの+送料での400円ぐらいまででのことで、身近に受験生とかがいないのなら、我が家のようなマイペースじゃない限り、新品の定価1,500円への割高感は否めない。

 写真がないと寂しいので猫パコのをアップ。
 ソファーでこの本を読んでいる時に、パコは私の布団を渓谷状にしてそこに挟まるように寝ていた。猫はこういう長い溝状のところに伸びて寝るのが好きだ。冬は当然丸くなるが。高校3年生とかがこれを見たら、猫は受験がなくていいなぁ、と思うかもしれない。しかし大人になっても「猫は○×がなくていいなぁ」、と思うことしばしだけどね。

「空」と写真表現

『空の理論』

『空の理論』

 佛大教養講座だけど、9月上旬に出した3つ目のレポートが全然返ってこない中、1ヶ月半ぐらいかかってやっと4つ目の課題テキスト『空の理論』を読み終わった。それも最初の1回目。角川ソフィア文庫から出ている350ページぐらいの文庫本。
 「空」はブッダの頃からあったけど、あまり詳細解説がないままのところに、大乗仏教の龍樹という人がそれを論理的にまとめて『中論』を著して「空」は大乗仏教の基本となった、とあった。三部構成のこの本の一部は2/3を占め、内容はすべて当時のバトルが記してあったので良く分からない。
 多種宗派思想等が百科騒乱風の当時のインドにあって、まず龍樹はあっちこっちの思想哲学の文字説明に対して突っ込みを入れまくる。そして本では、これはその『中論』の×章△項目に述べらていて、▲□×だから、△×○になるのが空である、とあり、あれ、どっかで聞いたことがある。キリスト教の聖書だ。これも何かがあると、ヨハネ▲□×章の△×○条にてイエスが言ったことに当てはまる、などetc。
 その龍樹等のバトルは、弁証法など哲学用語満載で果てはカントやソクラテス、アリストテレスなども出てきて、今なんの勉強しているんだ、になりレポートの3000字、埋まんのか、になる。

 課題は「空」についてのみなので、この場合はバトルにたくさん接しても直線的な意味はない。70ページぐらいの二部になると共著のお二人が対談形式にて『中論』を通して空を語っていて、この辺から拾ってゆけるかな、と思った。同じく70ページぐらいの三部では主編の著者が同じく『中論』を通して自分なりの「空」を述べていて、なーんだ、最初に二部と三部を読んでから最後に補足的に一部を読めば良いことが一通り読んで分かった。

 昔からあちらこちらでちょこちょこ見かけた「色即是空」、これは大乗仏教から生まれた言葉だというのが分かった。「色」は例のエッチ系ではなく、人間が五感等によって知覚した共通認識である言語等に置き換えて認識する事柄事象のこと。

 以前、写真表現中村教室という私塾風写真学校で非常勤講師をしていて、その代表は私の写真の師匠である。同じ被写体であったとしても、その時の自分と被写体はその一瞬で、その一瞬としての「眼」で見据えることの重要で、普遍的な常識視点概念では見てなならないことを説いていた。
 おっと、「空」と類似しているではないかい。
 とにかくその理論等を頭に入れるも、結果として実践の中においてのみその理論を体得するとういのは、写真(おそらく芸術一般)と仏教は似ているかもしれない。

 結局、「空」は最初のブッダの教えを真摯に復興したカタチになった、と見受けられた。そして、その「空」自体はブッダの「縁起」を再演している、というのがたった一冊だけどのこの本から分かった。

 写真表現って、ブッダの「縁起」に所以するかもね~。

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